ガーブ川の源流

2024/01/20昔話, 沖縄

ガーブ川(ガーブー)は、那覇の繁華街を流れているせいか話題になることが多い。現在では大半が暗渠化されており、水上店舗ができて60年以上になるのに。

SNSでも定期的に話題になっています。

いくつかのブログでも記事になっているので、私の記憶で補足しながら紹介してみます。

現在、地上から見える範囲

与儀(よぎ)公園内からガーブ川を遡っていくと、NTT那覇ビル裏までは開渠ですが、沖縄南部療育医療センター側から暗渠になります。さらに進んでいくと沖縄県立那覇特別支援学校を過ぎたあたりで再び開渠になります。

県道222号真地(まーじ)泉崎線を渡ると向きを東に変えながら再び暗渠となり(1)、真和志(まわし)小学校近くで開渠になります(2)。そしてしばらく先の住宅街で暗渠になり(3) その先がどこになるのか現在ではわからなくなっています。

OpenStreetMapを元に作図


1919年(大正8年)の地図から

ガーブ川は記載されていないので谷筋をマークしてみました。上間(うえま)小学校の北東を通るルートと、寄宮(よりみや)中学校の東側を通るルートがありそうです。この頃の道路は現在の寄宮中学校の中を突っ切る形になっています。今の寄宮中学校の北門と南門の道がそれかもしれません。

与儀の後原(くしばる)のあたりも谷筋っぽいですが、この辺りは早くから住宅地になっていたのでさっぱりわかりません。今でも後原の住宅街のスージ道には溝がある場所がありますので、そこが川だったのかも。

(明治13年から存在する真和志小学校以外の学校は、山の上にあることもわかります)

1945年の米軍空撮写真から

この辺りは水が豊富で、田畑が広がっています。ガーブ川と思われる黒い筋が左上の宮城原(みやぎばる)へ流れています。流れは寄宮中の北東で折れ曲がっているようにも見えます。その先は田畑に埋もれてよくわかりませんが、ところどころに川筋かもしれない黒い筋が見えます。


グダグダさんの記事

昔の那覇の話はグダグダさんの記事が参考になります。

グダグダさん記事の地図を引用します。ゼンリン1965年版を元にしているそうです。

現在と異なり、県道222を渡った先から真和志小学校前までの区間も開渠ですし、現在暗渠になって先が不明な部分も一部開渠になっています。たしかに昔は現在よりも開渠部分は多かったです。

グダグダさんの記事の「ピンク色の点は橋」も記憶があります。この橋のすぐそばに紙工場があったのを覚えています。川は紙工場のそばを流れてしばらくして南に折れていました。その先は田畑になっていたのか記憶にありません。

下の写真は1970年の国土交通省航空写真。工場の南側を川が流れているのがわかります。川は住宅街を南に曲がり、その先は既に暗渠化されているようです。

昔の写真を見ても、ここから先は田畑のそばを流れる小川程度の流れだったのだと思います。戦後、急激に宅地化して排水溝・暗渠になってしまったのでしょう。昔のガーブ川は洗剤の泡が湧き返るような川でしたし。

現在の丸大通り(沖縄大学前から洗田原(あれーらばる)土帝君(とーてぃーくー)横を通る道)は昔は砂利道で、道の左右には小川が流れていました。

暗渠さんぽさんの記事

2つ目の記事が(暗渠さんぽさんによる)源流と思われる場所を探した記事になっています。



2番目の記事のスタート地点は那覇市長田2丁目24と29の境の道路で、進んでいくとサンシャイン長田とグリーンハウス長田の間に急な階段があります。

その先、「いかにも谷戸」と書かれている部分は大倉ハイツ自治会の範囲です。



ここは昔は国吉農園・花鱗園がありました。子供のころ畑道を探検していると突然鯉の養魚場が出てきてびっくりした覚えがあります。谷間で水が豊富だったから養魚をするようになったのでしょうか。

その花鱗園の範囲がそのまま開発されて大倉ハイツとなったと推測しています。

花鱗園の広告はむつみ橋側の水上店舗にもあったような記憶があります。

なお、「暗渠マニアック!」という書籍には『ガーブ川については谷頭に「スリバチ公園」がある』との記述があるらしいが、「スリバチ公園」という名前の公園は那覇にはないと思う。長田大倉ハイツ公園をそう呼んだのか、別に何かあるのか。

ブログやSNSの記事

検索してみると多数見つかります。何が人をガーブ川の源流に惹きつけるのでしょうか。

那覇市寄宮土地区画整理

Twitterで参考になりそうな資料を教えていただきました。ありがとうございます。



グダグダさんの地図にあった橋のあたりを切り出してみました。色の塗られている部分は、工事予定年度で黄色が64年度、ピンクが67年度です。
現在の図面と比べると、黄色が汚水・雨水管、ピンクが汚水管のようです。

下水道施設情報閲覧システム|那覇市公式ホームページ

矢印はガーブ川らしき黒い線。西から橋を渡ってすぐに南に折れ曲がり、現在駐車場になっている部分を通って道路を超えています。グダグダさんの地図にある川筋に比べるとだいぶ短くなっています。住宅街の中に細い筋になっているようでもあります。



地図を見ていて気がついたのですが、区画整理の予定では長田北公園の部分に道路があり、それが道を超えて東側まで伸びていますが、現状はここは公園と建物(ふく薬品)があります。ここに道路が無いのは地味に不便なんだよな。

グダグダ(β) 寄宮区画整理で指摘されているように「本来この計画は1964年から1967年に行われるものであったようですが、住民の反対運動などで1967年に中止され、話し合いで1972年に再開」の間に変化があったのでしょう。実際、長田原の宅地化が進んだのは海洋博の頃からと記憶しています。


1966年の那覇市住宅地図から

沖縄慶文社の「那覇市住宅地図」1966年版の「83 寄宮・国場」にガーブーの川筋が描かれていました。川筋を現在のOpenStreet Mapに重ねて描いてみました。
グダグダさんが参考にされたゼンリン1965年版とほぼ同じのようです。このころは、ここが川筋だったのでしょう。

©OpenStreetMap contributors

1964年当時の長田原の写真

長田1-2丁目がまだ畑と原野だった時代の写真。これ、どこからどこを撮影したのかさっぱりわかりません。

寄宮中の南から大石原公園や識名のあたりを撮影なのか? 右側の山すそのような部分が上間小のあたり??

昔話, 沖縄

Posted by ず@沖縄