復帰のころの物価上昇の思い出
私が子供のころ「いっせんまちやー」と呼ばれていた店があった。
語源は「一銭まちやー」だと思うけど、実感は「1¢まちやー」。子供が 1セント持っていけば何か買い食いできる店だ。小学校の近くにはごく小さなイッセンマチヤーがあったし、小さな商店が子供向けコーナーを作っている場合もあった。
私の通学路にはそのような店が4-5軒あって、毎日誘惑と戦いながら帰宅していた。
日本語で言えば駄菓子屋にあたるのだろうか。
昔のドルは使いでがあった
1980年代に円がみるみる強くなったので今では実感できないけど、子供ながらに昔のドルは使い出があった、と思う。
お年玉が1-10セント。25セントだと凄く嬉しい。1ドルくれる人はまずいない。
1ドルあればバス乗って那覇まで行って映画見て食事してお釣りがくる、という話もある。私はまだ子供だったのでそのような経験はないけど、親戚からそのような話はよく聞いた。
ドルが強い時代でもあったし、意図的に日本円の為替レートが安く設定されていたことも原因だったらしい。下記論文にもあるがB円やドル高のおかげで日本から沖縄への輸出が増え日本の産業育成にはなったが、沖縄の産業育成にはマイナスだった。今でもポーク缶詰などの輸入は多い。
こうして、米国は、沖縄の基地建設、また、沖縄と日本本土の復興をめぐって、沖縄側では割高な為替相場によって日本本土からの輸入を促進することによって、日本本土側では割安な為替相場によって沖縄への輸出を促進することによって、沖縄の復興と日本の輸出業の育成(さらには経済成長)を両立させることを意図していたのである
復帰時の円$レート
復帰前の塩せんべいが1枚1¢だった。塩せんべいに限らず最低価格が1セント。でも1セントが大金だったので、真剣に何を買うか選んだものだ。
ところが‼︎ 1セントで買えた塩せんべいが、日本復帰したら1枚5円になったんだよね。それ1$360円でも308円でも便乗値上げだろ……
子供心に「便乗値上げ許すまじ」って思ったものだ。
アイスクリームのコーン部分の不良品を売ってくれる工場に通ってたのも そのころ。かなり大きなビニール袋にコーンを入れて売ってくれたことを覚えている。今から思えば1円でも安く腹が充たせるところに行ってたのかもなあ。
田中角栄の日本列島改造論とか、狂乱物価とか、オイルショックとかあったんで、日本全国がインフレ気味ではあったんだけど。復帰時、復帰後の変動は子供の財布には痛かったです。
(1$360円だった公定レートがドル・ショックで308円になり、その後も円高になるにつれて繁華街に米兵も出てこなくなったぐらい)
塩せんべい平価
現在は塩せんべい1枚20円前後なんだよね(一部プレミアせんべいを除く)。1セント(3.6円)のころから考えると6倍になっている。大きさも1回り小さくなっていて、10倍ぐらい値上げされた実感がある。
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