ビンゴハウスの謎2(戦後沖縄にあったパチンコ以前のギャンブル)
前回記事「ビンゴハウスの謎(戦後沖縄にあったパチンコ以前のギャンブル)」の続き。ビンゴハウスがどのようなものか不明だと書きましたが、なんと写真が見つかりました。1956年9月18日の琉球新報記事です。
琉球新報 1956年9月18日(火)3面
琉球新報記事内容
神里原や平和通りに多数あったビンゴハウスが「パチンコに押されて、那覇から何時の間にか姿を消してしまった」が、「基地の街「コザ」には未だに生きて、大繁昌している」という記事です(引用は琉球新報記事から、以下同様)。
写真ではカードのようなものを机に並べていますし、記事に「Iの○○番、Gの○○番などとガナリたてるマイクに目を白黒」とあるように現在も遊ばれているビンゴと同様のゲームだったようです。
「素早くコマを並べる」「立ったまゝコマを並べている」とも書かれていて、現在の穴あけ式のカードとは異なり、コマを並べてビンゴを判定する方式だったのでしょうか? 写真にも山積みされた円形のコマが写っています。
掛け金について
「一回のゲームは、カードを三十枚 ー 即ち三百円に限定されている」、「しかしコザのそれは、法規なんかそつちノケだ。客の要求するままカードは何枚も売る」、「多いのは一人で十五、六枚から二十数枚も」、「景品も一回のゲームは売り上げの八割まで」とあります。記事に書かれている「三百円」は米軍占領下で発行されていたB円のことで※1、この頃は1$=120B円ですので、1ゲーム3ドル弱。今の1万円ぐらいの金額を奪い合う感じでしょうか?
「第一ビンゴ、第二ビンゴ、第三ビンゴに当たらなければこのカードは宙に舞う」とも書かれていて、先着3名?が当選する仕組みのように見えます。
- ※1 このB円は日本に比べて極めて円高なレートであり、沖縄にとっては過重な負担となりました。Wikipedia:B円の項にも「1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した」と書かれています。
依然残る謎
前回記事に書いたように、グダグダ(β)さんによると那覇市の市民の友にビンゴハウスについての記述がある。以下、孫引き。現在同様のビンゴゲームだとしても“アカ、アカ、アカ、アカ、シロ、シロ、シロ、シロ”が何を指しているのかよくわからない。
名物風景
那覇市新商売往来 異色戦後版
“アカ、アカ、アカ、アカ、シロ、シロ、シロ、シロ”ほとんど怒号にひとしい怒鳴り声が街路に溢れてバクハツする。これが戦後派び王座に君臨するビンゴハウスだ。ご繁盛の程度からいって不思議にこのビンゴが断然戦後新商売のトップを切るのだから凡そ愉快である。市民の友 第1号 1952(昭和27)年1月28日発行 ビンゴハウス
雑誌みーきゅるきゅる vol.4 特集むつみ橋 のビンゴの記事も腑に落ちない部分がある。「ボールを転がして穴を埋める」とあるので、Bingo Pinballに近いゲームのように思われる。しかし琉球新報記事では「ビンゴは玉コロガシを駆逐」したとあり、明らかに別ゲームだ。もしかすると、ビンゴハウスとは別にビンゴピンボールも遊ばれていたのだろうか。それが後世に混同されて、謎のゲームになったのかもしれない。
平和通り付近では、露天劇場、すもう、芝居などやっていたという。現在「なみさと」がある一角には、ボールを転がして穴を埋めるビンゴゲームの店があった。アメリカ人がやっていたのを真似して始めたようだ。
「当たれば『ビンゴー』というコールをするのです。みなコールするのは最初は恥ずかしがっていました。チケットは赤い布で、5枚1ドルでした。ビンゴになり賞品をもらいに市場に行くと、そこでまたくじ引きがあり、ダブルで当たっことありました」。昭和40年代まで行われていたようだ。
那覇にあったビンゴハウス
現在の丸国マーケット。サンライズ那覇(新栄通り)と浮島通りの交差点の角。
(この写真はBlakie-SANの御子息のWbm Bradford氏がYoutubeに掲載した動画の一部です。本写真のブログへの掲載・改変・利用にあたっては著作権者であるWbm Bradford氏より許可をいただいています。転載等はご遠慮ください)
追記:
1957年ごろの石川市(現うるま市)の写真がfacebookに投稿されていました。 この写真の右側の建物に「BINGO HOUSE」とあり、ビンゴカードの絵も書かれています。
(同じ写真なのに推定年代が違うのはなぜだろう)
ディスカッション
コメント一覧
こんにちは
現在18歳の者です。
小学六年生の頃英語の授業で中学校から出向されてきた英語の先生がビンゴハウスの話をされました。
先生はビンゴ屋と仰ってましたが恐らくビンゴハウスと同等のものでしょう。
先生は当時55歳位でしょうか。
戦後世の中はぐちゃぐちゃやった。何でもアリな世の中で、ウチの実家の職業はなんとビンゴ屋やったんや。おふくろがでっかい抽選器をガラガラ回してたんや。
との事で、他の話にすぐ移ってしまいましたが不意にその時が思い出されてここに辿り着きました。
すっきりしました。
ありがとうございます。
因みに大阪でしたが、私は中学受験をし先生の事はそれ以外一切知らないので大阪の話かは分かりません。
匿名希望さん、こんにちは。
先生の年齢から考えると、1960年(昭和35年)ごろの話になるのでしょうか。
ビンゴ屋は戦後(昭和20年代)にはあちこちにあったようです。その後、パチンコに押されてなくなってしまうのですが、地域によってはしばらくは残っていたのかもしれませんね。
興味深い話、ありがとうございます。
私の記憶をお話しします。
昭和29~30年くらいの神戸市の大正筋商店街にありました。
私は当時小学1年生かjそれくらいだと思います。
ガラス越しに見ていました。
客はボール紙に数字の書かれたカードを買います。使い回しなのでボロボロだったようです。
数字の上に色が塗ってありました。
ホールの一番奥で女性が番号を読み上げます。
赤のさーーんばーーん、黄色の5番、黒のきゅうーーばん白1番
って、節を付けながら読み上げていたようです。
面白くて、ずっと見ていました。色のついたボールが二本の針金のレールを伝って壁の奥から出てきます。面白いし綺麗でした。
客は何枚ものカードを前に並べて、硝子のおはじきをおいていました。
1ゲームが終わると、ため息や笑い声が起きていました。
若い衆がカードを確認してメダルを置いていました。メダルでビスケットや缶詰と交換していたようです。
すぐにパチンコ屋に変わりましたが、子供心にはあのおばさんの節回しが懐かしかったのを覚えています。
懐かしさで一杯です
中田さん、こんばんは。
昭和29-30年(1954-5年)ということは、新聞記事と同じころですね。もしかするとこの時期に全国的に行われていたギャンブルなのかもしれません。パチンコに変わったのも同様です。
私の記事内の“アカ、アカ、アカ、アカ、シロ、シロ、シロ、シロ”も、もしかするとビンゴの縦列を色で読んでいたのかもしれません。色々と想像を掻き立てられる話です。
コメントありがとうございました。