ビンゴハウスの謎2(戦後沖縄にあったパチンコ以前のギャンブル)

2018/03/23沖縄の昔の写真

前回記事「ビンゴハウスの謎(戦後沖縄にあったパチンコ以前のギャンブル)」の続き。ビンゴハウスがどのようなものか不明だと書きましたが、なんと写真が見つかりました。1956年9月18日の琉球新報記事です。

琉球新報 1956年9月18日(火)3面

琉球新報記事内容

神里原や平和通りに多数あったビンゴハウスが「パチンコに押されて、那覇から何時の間にか姿を消してしまった」が、「基地の街「コザ」には未だに生きて、大繁昌している」という記事です(引用は琉球新報記事から、以下同様)。

写真ではカードのようなものを机に並べていますし、記事に「Iの○○番、Gの○○番などとガナリたてるマイクに目を白黒」とあるように現在も遊ばれているビンゴと同様のゲームだったようです。


「素早くコマを並べる」「立ったまゝコマを並べている」とも書かれていて、現在の穴あけ式のカードとは異なり、コマを並べてビンゴを判定する方式だったのでしょうか? 写真にも山積みされた円形のコマが写っています。

掛け金について

「一回のゲームは、カードを三十枚 ー 即ち三百円に限定されている」、「しかしコザのそれは、法規なんかそつちノケだ。客の要求するままカードは何枚も売る」、「多いのは一人で十五、六枚から二十数枚も」、「景品も一回のゲームは売り上げの八割まで」とあります。記事に書かれている「三百円」は米軍占領下で発行されていたB円のことで※1、この頃は1$=120B円ですので、1ゲーム3ドル弱。今の1万円ぐらいの金額を奪い合う感じでしょうか?

「第一ビンゴ、第二ビンゴ、第三ビンゴに当たらなければこのカードは宙に舞う」とも書かれていて、先着3名?が当選する仕組みのように見えます。

※1 このB円は日本に比べて極めて円高なレートであり、沖縄にとっては過重な負担となりました。Wikipedia:B円の項にも「1ドル=120B円という、日本円に比べ割高なレートがとられたのは、アメリカ軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払う際に有利な条件にするためだったといわれている。これにより日本本土から安価で資材を調達することができたかわりに、沖縄県周辺の経済は空洞化した」と書かれています。

依然残る謎

前回記事に書いたように、グダグダ(β)さんによると那覇市の市民の友にビンゴハウスについての記述がある。以下、孫引き。現在同様のビンゴゲームだとしても“アカ、アカ、アカ、アカ、シロ、シロ、シロ、シロ”が何を指しているのかよくわからない。

名物風景
那覇市新商売往来 異色戦後版
“アカ、アカ、アカ、アカ、シロ、シロ、シロ、シロ”ほとんど怒号にひとしい怒鳴り声が街路に溢れてバクハツする。これが戦後派び王座に君臨するビンゴハウスだ。ご繁盛の程度からいって不思議にこのビンゴが断然戦後新商売のトップを切るのだから凡そ愉快である。

市民の友 第1号 1952(昭和27)年1月28日発行 ビンゴハウス


雑誌みーきゅるきゅる vol.4 特集むつみ橋 のビンゴの記事も腑に落ちない部分がある。「ボールを転がして穴を埋める」とあるので、Bingo Pinballに近いゲームのように思われる。しかし琉球新報記事では「ビンゴは玉コロガシを駆逐」したとあり、明らかに別ゲームだ。もしかすると、ビンゴハウスとは別にビンゴピンボールも遊ばれていたのだろうか。それが後世に混同されて、謎のゲームになったのかもしれない。

平和通り付近では、露天劇場、すもう、芝居などやっていたという。現在「なみさと」がある一角には、ボールを転がして穴を埋めるビンゴゲームの店があった。アメリカ人がやっていたのを真似して始めたようだ。

「当たれば『ビンゴー』というコールをするのです。みなコールするのは最初は恥ずかしがっていました。チケットは赤い布で、5枚1ドルでした。ビンゴになり賞品をもらいに市場に行くと、そこでまたくじ引きがあり、ダブルで当たっことありました」。昭和40年代まで行われていたようだ。

追記:

1957年ごろの石川の写真がfacebookに投稿されていました。 この写真の右側の建物に「BINGO HOUSE」とあり、ビンゴカードの絵も書かれています。

沖縄の昔の写真

Posted by ず@沖縄