「旧盆が沖縄・奄美だけ残っている」というのは問題設定が変な気がする
沖縄県民が今も「旧暦」を使い続ける歴史背景 | 東洋経済オンラインを読んで思ったこと。
この記事では、沖縄は旧暦が根付いているから旧盆が残っている、という解説をしている。よく聞く話なんだけど、これ、問題設定が逆な気がする。
というのも立地的に中国に近い沖縄では、時憲暦に基づく暦が1674年に初めてつくられ、それ以降明治初期に至るまで刊行されていたのです。また、琉球国の時代に中国に朝貢し、毎年暦を受領していた影響が強く残っているようです。
本土への抵抗感もあったでしょうし、奄美や沖縄などの南西諸島はほかの地域よりも中国文化の影響を強く受けたこともあるでしょう。何より沖縄では暮らしに旧暦が根付いて独自の文化を築き上げており、現代まで残ったのだと思います。
日本はなぜ旧暦を捨てたのか?
これ、「日本はなぜ旧暦を捨てたのか?」が正しい問いかけのように思います。普通に考えれば、社会全体の暦を移行するには大きなコストがかかるわけで、どのような理由があって移行したのか、そしてその理由がすっかり忘れられているのはなぜなのでしょう? 移行の理由や苦労を忘れてしまったからこそ、「沖縄にだけ残っている」のが奇異に感じられるわけです。
(正月は1月1日・雛祭りは3月3日なのに、お盆は7月15日ではなく8月15日になっているのも移行の苦労の現れですよね。地域によっては新暦7月15日のところもあるし)
中国や台湾、韓国などではいまでも旧正月(春節)を祝います。この時期になると通販の荷物が遅れたり、連休で仕事が捗らなかったりします。東アジア全体で見ると、沖縄の方が普通に見えます。
日本の行事の新暦移行時期は?
さて、日本での移行時期の話は「写真で読むニッポンの光景100」にはこのように書かれています。
戦前はもちろん千九五〇年代あたりまでは、旧正月がかなりおこわれていた。私は幼い頃、新暦と旧暦の正月を二度した記憶がある。新正月はテレビやラジオによる新年であり、旧正月のほうがさまざまな行事がおこなわれていた。
一九六〇年代、高度成長期に入って、お盆は別にして、会社員や工場労働者、特に地方出身の出稼ぎの人たちの正月休みは新暦の正月になった。みんながこの時期に実家に帰るようになり、新暦の正月が一般的になっていったようである。写真で読むニッポンの光景100 川村邦光著、青弓社、P.34より引用
新潟県立図書館の記事も、定着したのは昭和30年代以降、としています。
どうやら、日本人の季節感にも合っていて、長年慣れ親しんできた旧暦に基づく生活サイクルは、簡単に切り替えられるものではなかったようです。粟生津村に限らず、県内の農村部の多くは、第二次世界大戦後まで旧暦に合わせた生活を続けました。現在のように新暦が人々の生活に定着したのは、高度経済成長期を迎えた昭和30年代以降のことになります。
他の地区でも同様です。
旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)への移行については、明治6(1873)年から新暦を採用して以来、正月や盆が徐々に新暦で行われるようになった。しかしながら当時はまだ旧暦で実施されるところが多かった。行事が新暦で行われるようになったのは終戦後、特に昭和30年代になってからが多い。
いずれにせよ、明治政府が新暦に切り替えたからあっさり変更したわけではなく、大勢が移行したのは敗戦後(昭和30年代)のようです。何が移行を促したのでしょうか? 誰か教えて。
(ちなみに沖縄の旧暦が残ったのは、高度経済成長期に米軍統治下にあって日本と切り離されていたことと、その当時の公休日が旧暦で設定されていた※1からだと思っているのですが、これも要調査事項です)
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