知ってること・できること・理解していること・教えられること
いまどきのネットの書きものには大抵コメント欄やらブックマークやらのご意見頂戴欄がある。twitterも何か書くと @メンション が飛んでくることもある。考えたら昔ネットが無かったころは、こういうのもなかったんだよなあ。同人誌とか読者投稿欄みたいなのを除けば。
「喧嘩と炎上はネットの華」。コメント欄やブックマーク欄がするすると伸びる場合があって、その一因となるのが「名人様」の存在だ。ニコ動百科にある定義「名人様とは」から抜書きすると:
名人様とは、全ジャンルの動画コメントに降臨なされる、
それはもう、空前絶後、神懸り的に素晴らしい才能をお持ちで有らせられる御方である。…と思われる。
名人様概要
主に、他者の動画を斬って捨てる事を生業にしておられる。
その批判は、自分の経験、技量等に裏打ちされた確かな判断の基、
『こんなの普通』『俺の方が上手い』『下手すぎる』と、神々しい御言葉(以下コメント)と共に下される。されど、何がどう普通なのか、名人様の方が上手いのか、我々が下手過ぎるのか語る事は少ない。
そして名人様が居座るようになった分野は結晶化が進む。その分野が好きで生き残って欲しいなら初心者の手助けをするべきで、そうでない人が多数を占めるようになった分野は緩やかに滅びの道を歩む。滅びそうになったジャンルだから、名人様が目立つのかもしれないけど。
「名人様」という呼び名は多分ニコ動起源なのでそう古いものではないと思うけど、昔はなんと言ってたんだろうなあ? 思い出せない。
「様」をつけて揶揄するのが流行ったら、そのうち「様」の地位も下落するんだろうか。そうなりそうな気もするし、そうでもないような気もする。「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」と詠まれてからかなりになるはずだけど、先生の地位はまだ保ってる….よね?
将棋のニコ生を見ていると対局者にああしろこうしろと助言する人は多いけど、「それが本当に有効な助言であるか」を考えて発言している人は少ない。端的な助言が理解し実行できるようなら、そもそも初心者じゃないんだよね。這い這いしている赤ん坊にマラソンのコツを教えているようなものだ。twitterやブクマの1行コメントもそうだよね。啐啄は、そうそう起こらない。
「知ってる」と「理解している」の間の差は大きくて、実際に自分でやってみないと理解にはたどりつかない。medtoolzさんが『「ある問題を解決するためにできること」を学ぶのが知識の習得であって、「ある問題をそれ以上悪くしないためにやってはいけないこと」を知ることで、ようやく理解に到達できる』(陰謀論と理解 – レジデント初期研修用資料)と言ってるのも、そういうことだと思う。
「知ってる」けど「できない」こともあるし、「できる」のに「理解してない」こともある。私はなぜ歩けるのか理解しているのだろうか。そもそもどうしたら歩くことを理解したことになるんだろう?
そして「できる」ことを「教えられる」かどうかも、また別の話。下手をすると出来すぎる人ほど教えられない。意識的に学習したことは教えられても、無意識に学んだことは教えにくい。自転車の乗りかたは教えられても、歩き方は教えにくいだろうと思う。だから、人が教えたがることは大抵難しいことだ。簡単なことをちゃんと教えてくれる人は少ない。そんな人を見つけたら大事にしよう。
素質のある上級者ほど、無意識にいろいろなことを学ぶので、初心者がどこで躓くのかさっぱりわからなくなる。そこで躓きの原因を心がけとか努力とか素質に還元し始めると名人様への道は近いような気がする。(善意を持ってる人ほどやばくって、相手が素直に助言を受け入れないと相手のせいにしたりする。 そういう人は、教えられる人からの感謝を期待しているわけで。共依存の萌芽かもしれない)
「知ってること・できること・理解していること・教えられること」の間の差は大きいと思う。「できない」けど「教えている」場合もあるし、「知らないこと」を「教える」場合もあるだろう。さて、それはどんな場合だろうか?
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