1953年ごろの沖縄のバス路線図
スタンフォード大学の図書館サイトに古い沖縄バス路線図がありました※1。地図の注記には1955?と書かれていますが、正しくは1953年ごろの路線図と思われます。
目次
なぜ1953年ごろとわかるのか?
この路線図には以下の13のバス会社が掲載されています。
- 沖繩バス
- 銀バス
- さくらバス
- 東陽バス
- 昭和自動車
- 合同バス
- 平尾あらがきバス
- 沖縄靑バス
- 協和バス
- 三共バス
- 第一交通
- 那覇陸運
- 首里バス
これを「内閣府 沖縄総合事務局 – 運輸要覧・業務概況について」の古い資料(平成22年以前)に掲載されているバス会社の歴史と突き合わせてみます。すると路線図には遊覧バスが掲載されていません。遊覧バスがあらかき平尾バスと合併したのは1952.5.15です。また、1953年には那覇陸運と第一交通、昭和バスと三共バスは合併しています。
業務概況 平成22年版、沖縄総合事務局陸運事務所 (PDF) p.17 より引用
路線図右上・左上には沖繩海邦銀行の前身である沖繩
路線図右側には
以上の情報から、1953年の可能性が高いと考えます。
路線について
ほとんどの路線で、複数のバス会社が競合しています。沖縄本島は細長い上に輸送需要のある地点は限られているので、どうしても競合が発生します。これは現在も変わりません。本図で最も本数の多い屋慶名線は8社が運行しています。
首里線・普天間線は「経」と書かれていますが、これは他路線に乗って「経由」して行けるということでしょうか。銀バス石川線北谷経由にも「経」の文字があり、これは少し謎です。北谷を経由して瑞慶覧から石川に向かったのでしょうか。
1950年の沖縄バス路線図と比較すると、島尻一周線・東風平線が消えています。ここには現在もバスが運行しているので、需要がなくなって廃線になったとも思えません。どうも南部の路線が省略されているように見えます。もしかすると主要路線のみ掲載しているのかもしれません※4。
- ※4 記事投稿時はこのように考えていたのですが、他の資料でも南部路線が記載されていないものがみつかったので、調査が必要です。
ペリーという地名、バスの大迂回
那覇の南(右側)にペリーと書かれた場所があります。これは小禄の山下町一帯、旧みなと村ペリー区です。いまでも近隣にはペリーの名のついた店が存在します。
この頃は那覇大橋は存在しないので、バスは明治橋から山下に向かいました。始発地は壺屋や神里原ですので、壺屋→ひめゆり通りを南下→壺川から明治橋→山下→糸満方面と運行していたのでしょう。那覇大橋ができた1970年以降もこの経路は引き継がれていて、89番糸満線など那覇バスターミナル→開南→壺川から明治橋と大回りする理由でもあります。
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