神里原は都会だったという話
Blackie-Sanのビデオ「Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA “BLACKIE-SAN" svFilms 480px 1.avi – YouTube」を調べているうちに、昔から(ちょっとだけ)気になってたことが2つ解決したので、それを書いてみる。
私が生まれたのは神里原にあった産婦人科だそうだ。 子供のころ、小学校の作文授業の題材を調べるときに母からそう聞いた。たしか親戚も幾人かここで生まれている。で、なんでここなんだろう? って少々疑問に思ってたんだよね。近所でもないし、選択する理由がわからなかった。
華やかだったのは遠い昔
WBM+Tsuha+ZUKERAN “Blackie-San" Okinawa Project copyright 2016
(前半1:27ごろまでが神里原大通り)
(記事にはWbm Bradford氏より提供いただいた写真・動画が含まれています。本ブログへの掲載・改変・利用にあたっては著作権者であるWbm Bradford氏より許可をいただいています。転載等はご遠慮ください)
私が生まれたのは、このフィルムが撮影された1954年よりはだいぶ?あと。市場や国際通りを徘徊しはじめるのは、さらに10年以上あとになる。遊んだ道順は開南~平和通り~国際ショッピングセンター間と国際通り。神里原にはまず足を踏み入れない。そもそも本屋もなかったし。
なので私にとって神里原は寂れた飲み屋街、なぜか時計屋と質屋が多い、というイメージ。なんでわざわざここを選んだんだろう? という素朴な疑問があった。
(撮影時期は1954年11月と思われる。参考:1954年:ペプシコーラ発売パレード)
Blackie-sanと、その後の調査でわかったのは、1950年代半ばまでの神里原は沖縄の大都会だったということ。映画館もデパート(リウボウ、山形屋)もあるし、壷屋のあたりにバスターミナルがあってバスの便もいい。私の住んでいたところからも神里原は便利な都会だったようだ (話が逆かな。都会だから、田舎から来やすいようにバス交通網が発達したのかも)。
後年、バスターミナルが泉崎にできて開南のほうがバスの便が良くなったり、国際通りが改修され・3大デパートができてからは神里原は不便になったんだろうけど。
(ああ、私が三越や山形屋よりもリウボウをよく覚えてるのもバスの便のせいだな)。
ということで、都会でバスの便がいいから神里原を選んだようだ (この項を書く前に母に確認したら、概ね正解らしい)。
私が生まれたころは、既に神里原はやや不便だったと思うんだけど、候補に上がるぐらいの場所だったんだろうな。私にとっては、おもろまちよりも国際通りが都会だし、行事の肉を買うなら近所のスーパーじゃなくて公設市場であるように、神里原に対する思い入れが親の世代にはあるのかもしれない。
農事試験場も近くにあった
解けた疑問はもう一つある。小学校の時代、こんな戯れ歌を同級生から習った。低学年のころだと思う。
遠足、遠足、どこ行くの?♪
農業試験場♪
子供のころは疑問にも思わなかったんだけど、大人になってから首里の農業試験場を知ってから、「なんでこんな遠いところを歌にしたんだろ?」って思ったんだよね。
安里付近上空からひめゆり通りの空撮 / 2011-05-11 12:40
那覇(航空写真)/安里、栄町上空から壺屋、寄宮、与儀方面を望む
配信元:那覇まちのたね通信
事業主体:NPO法人ちゅらしまフォトミュージアム・地域情報エージェント株式会社
なぞが解けたのは上の写真を見てから。「那覇(航空写真)/安里、栄町上空から壺屋、寄宮、与儀方面を望む」という説明がついている。写真上に見える、ひめゆり通りをまたぐ巨大な黒い部分が農業試験場だ。1950年代の写真。中央をまっすぐ走るのがひめゆり通り。農事試験場よりさらに上、遠くに与儀のタンクファームも見える。こんな巨大な農場が近所にあったら、子供の歌にもなるだろうなあ。
下写真は南側から北向きに撮影したもの。沖大裏はまだ農地だった。
ちなみに沖縄県農業研究センター 沿革によると、「昭和36年(1961)琉球農業試験場は那覇市与儀から首里崎山町に移転」とある。私が生まれる前に移転したのに、歌は残ったわけだ。
「グダグダ(β) 知事公舎周辺(50年代)」によると神原小中学校・与儀公園・市民会館・県立図書館あたりを含む広大な土地だったようだ。道理で公共施設があそこに集中しているわけだ。いまのおもろまち(天久解放地)みたいなもんだな。
追記:沖縄県内のいくつかのバス路線が、北行きなのにわざわざ開南~与儀十字路~ひめゆり通りを経由するのも、元々は神里原発だったからかもしれない。生物の進化をみているようだ。
リンク:
- ず’s » Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA “BLACKIE-SAN”がなぜ素晴らしいのか
- ず’s » 1950年代の那覇の街の様子をカラー撮影した動画がYouTubeに上がってる
- 那覇まちのたね通信 | 劇場・映画/大洋劇場
- 那覇まちのたね通信 | 那覇(航空写真)/安里、栄町上空から壺屋、寄宮、与儀方面を望む
- グダグダ(β) 知事公舎周辺(50年代)
- CiNii 論文 – ガーブ川改修と商店街の形成過程 : ガーブ川中央商店街を中心に
- CiNii 論文 – 沖縄県における大規模小売商業の史的展開 : 百貨店の歩み
- CiNii 論文 – 那覇市商業の形成過程 : 那覇市国際通りを中心に
- 華やぐネオン…今は昔 往年の温もり残す街「神里原」 | 沖縄タイムス+プラス
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