1950年代の那覇の街の様子をカラー撮影した動画がYouTubeに上がってる
これは一見の価値ありです。思わず見入ってしまいました。ビデオを投稿されたwbm2012さん、撮影されたBlackieさんに感謝します。wbm2012さんはBlackieさんのご子息です。
提供いただいた写真及び動画のブログへの掲載・改変・利用にあたっては著作権者であるWbm Bradford氏より許可をいただいています。転載等はご遠慮ください。
目次
撮影経路
フィルムは壺屋交差点から開南向けに少し進んだところを起点に撮影されています。現在ののうれんプラザ近くの三叉路を右折し、神里原大通り(神原大通り)を直進します。神里原はこのころは沖縄一の繁華街でした。映画館や商店が並んでいます。
現在壺屋うふしーさーのある角を左折し、浮島通り方向へ向かいます。サンライズ通り(新栄通り)との交差点で周囲を撮影。その後千歳橋通り・浮島通りを直進します。
国際通りに出る直前で一旦フィルムは途切れ、次は現在のホテル山ノ内近辺から撮影が再開されます。バスが大量に路駐しているのは、国際通りが拡幅工事中だったためでしょう。
その後、大宝館(映画館)から平和通りへ右折、そのまま壺屋の手前まで直進したところで撮影は終了します。
OpenStreetMap®を元に作成。© OpenStreetMap contributors
上記ビデオを投稿されたwbm2012さんは、1952年の北部のビデオ(c1952 HDx 16mm “BLACKIE’s HEART": Northern Okinawa BetaTWO 720px Sampler “BLACKIE-SAN" – YouTube)も投稿されておられますが、さすがにこちらは さっぱりわかりませんでした。
こういうビデオが、家にいながらにして無料で見れるとは、便利になったものです。あとは、これが散逸しないようにすることと、有用なメタ情報を付加していくことが大切だと思います。この記事が、有用なメタ情報の一歩になれば幸いです。
撮影時期
「Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA “BLACKIE-SAN” について(撮影年月編)」に記事を書きました。1954年9月5日(土)〜9月10日(金)のどこかで撮影されたと推測されます。
時系列
- 冒頭: リウキンビル(RYUKIN)、かつて2階にリウボウが入居していた※1
- 0:03 リウキン前を右折。当時は開南から壺屋交差点に下る道はなかった。
- 0:30 ロール状の紙っぽい商品を売っている店があります。那覇(真和志市)/神里原の通り : 那覇市歴史博物館の左端自転車に「紙 平良商会」とあるので、これかもしれません。
- 1:03 知念商店は、上記写真にも写っています。一瞬映る左隣の○○靴店は、知念商店隣の知念靴店でしょうか。
- 1:05 のぼりに「主婦の友」と読めます。これも写真の「本」の看板の書店だと思われます(知念靴店左隣)。
- 1:06 バスが写っています。今は神里原大通りにはバスは通っていませんが、当時は壺屋に三共バスがあり(グダグダ(β) 旭通り(52年))、三共バス糸満線が通っていたようです (グダグダ(β) 市場通り(52年) 2)。
- 1:07 中央時計店・マネキン美容室についてはグダグダ(β) 旭通り(52年)に検証記事があり、神里原大通を左折して、マルクニに向かう途中です
- 1:32 「シンデレラ」の看板は映画シンデレラ姫。萬田ドレスメーカー専門学院の屋上に掲載か(グダグダ(β) かめや(えびす通り入口))
- 1:33 左の高い建物は十字屋レコード。このあたりについては、グダグダ(β) 新栄橋通り(51年)、グダグダ(β) かめや(えびす通り入口)に詳しい。
- 1:44 丸国マーケット前から開南向けに新栄通り(現サンライズ通り)を撮影。1970年代の写真 https://www.flickr.com/photos/the_worm_turns/68944170/in/set-1426697 と比較してもだいぶ違う。当時はアーケードがないから空が見える。
- 1:52 神村商店の右に見える2階建ては、那覇(平和通り)/丸国マーケットより新天地市場方面を望む : 那覇市歴史博物館にある角の宮里商店の左にある2階建てでしょうか。看板の文字が読めればはっきりするのですが。
- 1:55 丸国デパートの文字。2階がビンゴ屋※2。グダグダ(β) マルクニと対比するといいと思います。だいぶあとまで木造だったようですが、いつ建てかえられたんだろう?
一度神里原の方に戻って浮島通り向けに撮影してますね。左にゑびす通りそばの靴屋の看板が見えます。1:18と比べると一目。 - 2:09 と同じ場所のストリートビュー http://g.co/maps/f3ktp 建物がそのまま今も残ってます
- 2:12 円錐というか鉛筆の先のような飾りのついた建物が写っています。比嘉商店 : 那覇市歴史博物館でしょうか?
- 3:05 ガナハ薬局。グダグダ(β) 千歳橋通り/浮島通り(50年代初期)に同名の薬局があるけど、位置が違うような?
- 3:10 横断幕はグダグダ(β) BLACKIE-SAN(作業中)にて調査されているように「大那覇市建設 体育祭」。2009那覇市勢要覧の64ページ、1953年の項に「大那覇市建設諮詢委員」の名称があり、翌1954年には「首里、小禄を合併」の項があります。「大那覇市」というのは那覇・首里・小禄合併後の那覇市を呼んでいるのかもしれません。
- 3:24 道が少し左に曲がってから右に曲がるところがあるけど、このあたりじゃなかろうか?
- 3:30 階段は見たような気がするけど…牧志公園にいく階段のような気がする。
- 3:31 浮島通りから国際通り(牧志街道)へシーンが飛ぶ。道が下りになっているのは、旧山形屋からむつみ橋に下るところ。途中の国映館が写ってない。少なくとも前身の世界館は既にあったはず。
那覇(国際通り)/国際通り さくらバス待合所付近 : 那覇市歴史博物館に拡幅前(1951年)の国際通りの写真があります。狭いですね。ビデオ撮影当時は既に拡幅済みだったと思われます。 - 3:49 昭和バスの車体。沖縄ポストカード「50’s 昭和バス」 – 沖縄チャンプルゥ雑貨 喜器 (kiki)のように鼻の突き出た赤いバスも見える。グダグダ(β) 昭和26年のバスによると昭和バスは現ロイヤルオリオン向かいにあったらしい。自分が知ってるころには合併後の琉球バスのバス置き場になってた。1964年7月合併らしいので、知らなくて当然か。青いバスは青バスかな?
- 4:08 ラジオ沖縄。グダグダ(β) BLACKIE-SAN(作業中)のコメント欄によりますと、「ラジオ沖縄は現在のROKとは別物で、KSARを民営化した時に施設を借りて放送したもののつぶれ」とのこと
那覇(国際通り)/国際通り 松尾付近 : 那覇市歴史博物館にも写っている - 4:16 建物(来々軒と金城歯科)は、月星ビルからさらにむつみ橋側。20年近く後のOkinawa; 1968-1971, Part 2・Kokusai Dori Street – Naha, Okinawa | Flickr – Photo Sharing!と比較すると面白いです。
- 4:31の映画館は大宝館 http://tokkan-kozo.com/bind3-eikoden/pg02.html … 三越(大越)のとなり…というか、まだ大越ないのか、これ。今の那覇タワーのあたり。
- 4:43 平和通り。現三越の向かいの下り坂。百貨店という文字が左端に見える。この先、栄橋通りとの交差点までの店舗についてはグダグダ(β) 市場通り(52年) 2が詳しい。
- 4:54 ミエ?美粧院
- 4:45 横断幕は「ベンガルの槍騎兵」だと思います。1935年興行(直営洋画劇場上映作品 1934–1954)らしいので、再上映かな?
- 5:18 マリー美容室が写ってますね。この店はだいぶ後まであった気がします。
- 5:25 ちんどん屋さんが持ってる新装開店の看板なんだけど、Naha Orange Peddler – July 54 | Flickr – Photo Sharing!に写ってるのも丸三新装開店なんですね。かぶってる傘といい、同じ人だったりするんだろうか? こちらは友寄百貨店の上からの撮影のようです。
- 5:34 パリー美容室と安村書店があるので、平和通りの安木屋があったあたり。三越から下ってなみさとの向かい。 グダグダ(β) 安村書店。 5:31のソフトクリームの横断幕は、ここにあったソフトクリーム屋さんの宣伝だと思う
- 5:50 安村書店
- 5:58 高良時計店(高良レコード)。三越から平和通りを下って、いまだと花笠食堂の手前ぐらい
- 6:57 さらに平和通りを桜坂向けに歩いている。川田厚生堂は http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/Entry/998/ で場所がわかる
- 7:02 三叉路っぽい道路は、平和通りから桜坂に抜ける道 http://g.co/maps/5qa9p
- 7:12 霧の小次郎は1954年の映画。Photos from a Soldier with Rycom Signal – Okinawaの写真がこの「霧の小次郎」を裏から撮影したもののようです。グダグダ(β) 永山商店にて調査されています。写真撮影の時期は1954-1955となっています。
- 7:30 お茶屋さんが見えるけど、たぶん桜坂から坂を下ってきたところにあった茶舗
- 8:25 みつ屋書店。風景/市場付近 : 那覇市歴史博物館にも写っています。
- 8:32 「学生心中」の横断幕は日活の学生心中 | Movie Walkerのようです。1954年7月27日公開とのこと。
- 8:33 この位置http://g.co/maps/8x89cだと思います。正面はグダグダ(β) 新栄橋通り(51年)に書かれているように民衆百貨店でしょうか。
- 8:34 右奥にある高い建物は那覇(平和通り)/平和通り三叉路附近 : 那覇市歴史博物館の奥に写ってる建物と同じ建物(民衆百貨店だと思う)のように見える(グダグダ(β) 丸国周辺も参考に)。
- ※1 CiNii 論文 – 沖縄県における大規模小売商業の史的展開 : 百貨店の歩みの73ページに(リウボウは)「1952年11月に神里原通り琉金ビルニ階に直売店を設置」とあります。なお1954年4月には国際通り(県庁前)に移転していますので、このビデオが撮影されたころには、ここにはリウボウはなかったと思われます
- ※2 ビンゴ屋については、以下の記事参照。ビンゴハウスの謎(戦後沖縄にあったパチンコ以前のギャンブル) ・ビンゴハウスの謎2(戦後沖縄にあったパチンコ以前のギャンブル)
リンク
- 沖縄の昔の写真
- このブログの沖縄の昔の写真カテゴリ
- グダグダ(β)
- グダグダ(β) BLACKIE-SAN(作業中)
- Ernest Gordon Bradford – Blackie the Photographer – Okinawa Photography
- Okinawa Photo-Essay Books by Blackie the Photographer
不明な箇所の位置や、店舗の詳しいことがわかる方がいらっしゃったらコメント欄かtwitterにて教えていただけると幸いです。よろしくお願いします
ディスカッション
コメント一覧
うわぁ~。似てるねぇ~。ずさんが、那覇高校だと思い込みたい気持ち、よくわかる。
でもあまりにも画像が不鮮明すぎて、しかも青色が強調されすぎてて、私なら断言するのが怖くなる。コンピュータの画像処理で鮮明にできたらいいんだけど。
5:4~5にかけて、お店の人のパフォーマンスを見ながら衣類を物色しているおばさんの隣に、明らかにカバン持った女子学生と思われる人が写ってる。けど、長袖ブラウスと紺系統のスカートがわかるだけで、学校を特定する要素がない。この時代は、小学生でもセーラー服着てたりするし、石田中のようなすごく凝った造りのセーラー服着た子供の写真もあったりする。物がない時代から、少しずつ豊かになって外からいろんなものがどっと入ってきてる時代だから、何があってもおかしくない。
あまり中学校の制服は詳しくないのだけど……。
このページの映像に制服が写っているのでしょうか?興味深く視聴させていただきましたが、見つけきれなくてごめんなさい。
でも、那覇高校の制服は夏服、冬服とも1960年代の制定らしいです。それまでは、制服ならなんでもokの時代です。似たような市販、または手作りの制服を着用している生徒がどこの学校にもいる時代ですから、制服から学校の特定は困難です。(制服ノート10参照)
また、那覇中の制服も、制定当初からまったく同じではありません。特に初代の夏服の上衣には、両サイドにポケットがついていて、ポケット口の部分に青い縁取りもついていたようです。
自分の母校の中学でさえ、調べると新たな発見がある制服の世界。戦後の混とんとした時代を探るツールに、今のところ制服はとても役立ちそうにありません。
なお、「大那覇市」というフレーズは、1955年1/30制定の小禄中学校の校歌にも取り入れられているので、ほぼ正しいものと思います。
これからもいろんな古い時代の資料を発掘して紹介してくださいね。
8:18ごろ、8:33ごろに現在の那覇高校の夏服に似た洋服が写っています。複数の方が着ているので制服だと思ったのですが、違うのですね。さすが渚さん。
ずさん、
ブラッキーさんネタで、以前このサイトを見つけ、読ませていただいて感激したことを思い出し、再訪いたしました。
現在このビデオにたいしてFacebook 沖縄 ユーザーグループ で話題になっています。
https://www.facebook.com/?ref=home#!/groups/okinawa098/
このホームページですでに行われている詳細な考察、多くの方のコメントが、さらなる多くの方の思い出を引き出してくると思い、このURLをご紹介させていただきます。
情報ありがとうございます。ラジオ沖縄社に関しては「沖縄における戦後黎明期の放送」が一番詳しいようです。
他に情報があるといいんですが…
「沖縄における戦後黎明期の放送」の記事によると、沖縄ラジオ社(OBC) の社名の解説で、1954年に「ラジオ沖縄社」と短期間ですが名乗っていたようです。年代推定の矛盾は無いかもしれません。
@からや
からやさん、指摘ありがとうございます。
そうかー、まだこのころは神原中学校は無かったんですね。
訂正しておきます。
ZU2: These film projects are a work-in-progress and your detailed examinations are greatly appreciated. All observations and collaborations are welcomed. wbm2015@gmail.com “blackie’s second son, brad” again thanks Zu, and friends.
ずけらんさんこんばんは。
沖縄のインターネット草創期から頑張っているずけらんさん、ブログになっても頑張ってますね。
>時々写ってる那覇高校・ 神原中学校女生徒の夏服
OBとしていわせていただきますが神原がダウとです。小学校は1959年開校、中学校は2年遅れの1961年開校で、女子の夏制服は当時から現在の形状でした。
これは似たデザインとして那覇中ではないかと思います。那覇中は男子はブレザーに変わりましたが女子はこのままです。