Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA “BLACKIE-SAN” について(撮影年月編)
この記事は、2012年に紹介した素晴らしいビデオ “Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA “BLACKIE-SAN" svFilms 480px 1.avi – YouTube” についての整理・再検討記事です。
ビデオと同時に撮影された写真をWbm Bradford氏に提供いただきました。ビデオでは読めなかった文字が鮮明に映っているため、日付をより細かく特定できます。
(念のためビデオと写真を比較しましたが、同時と考えて矛盾はありません)
提供いただいた写真及び動画のブログへの掲載・改変・利用にあたっては著作権者であるWbm Bradford氏より許可をいただいています。転載等はご遠慮ください。
以前の調査については下記を参照のこと。
- 1950年代の那覇の街の様子をカラー撮影した動画がYouTubeに上がってる
- Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA “BLACKIE-SAN”がなぜ素晴らしいのか
当時の地図や状況については、グダグダ(β)さんのサイトから多くの情報を参考にしています。
Rx Mid-1950s 16mm VINTAGE NAHA CITY, OKINAWA “BLACKIE-SAN"
見たことがない人は、まずは全編見てください。1950年代中頃の那覇です。
撮影年について
投稿されたビデオのタイトルにもあるように 1950年代中期。以下の情報から撮影年や時期は絞り込める。以下、順に検証します。
- 映画の広告
- 大那覇市建設
- 安木屋の存在
- 牧志街道(現国際通り)の拡張工事
- パチンコ屋
- ラジオ沖縄の存在
以前の調査(1950年代の那覇の街の様子をカラー撮影した動画がYouTubeに上がってる)では「1954年の7月~10月ごろではないかと思われます (8月が一番ありそうです)」と推測しました。
映画の広告
1:31、桜坂近辺の萬田ドレスメーカー専門学校の建物の上に「シンデレラ○」と読める広告が映っています。この時期の映画ではシンデレラ姫とシンデレラ娘の2つが該当しそうです。字は姫に近いか。
こちらの写真では姫と読めます(姐に近いようにも見えますが姫だよね?)。
シンデレラ娘の広告は琉球新報縮刷版1954年7月2日から14日にあり、14日の広告には「
シンデレラ姫の広告は沖縄タイムス1954年9月7日朝刊に「本日堂々大公開 シンデレラ姫」とある。
4:34、大宝館の映画看板・垂れ幕。
左から、看板に 砂漠部隊、アメリカ野球を学ぶ、砂漠の決斗。垂れ幕に 落ちた偶像、雷鳴の湾、卑怯者、キャラバン、七つの大罪。
入口部分を拡大すると立て看板が見えます(ビデオ 4:30- にも立て看板は写っています)。
下の立て看板には次週封切 卑怯者と 近日大公開?(題名読めない)が描かれています。入口奥には砂漠の決斗とアメリカ野球を学ぶが描かれていて、この2つが上映中と思われます。
「砂漠の決斗」は沖縄タイムス1954年9月5日(土)夕刊に「本夕5時より有料試写会 砂漠の決斗 大宝館」の広告があり、9月6日(日)から上映されています。
「卑怯者」は沖縄タイムス1954年9月11日(土)朝刊に「同時封切 卑怯者 大宝館」とあり、同じく1954年9月18日(土)朝刊には「本日大公開!! 七つの大罪」とあります。
また、写真にある他の映画は雷鳴の湾を除いてはこれよりも後の上映でした。雷鳴の湾についてはわかりませんでした。再調査で判明したら追記します。
以上のことから、この写真の撮影時期は1954年9月5日〜9月10日の間と推測できます。
4:43、ベンガルの槍騎兵の横断幕。
沖縄タイムス1954年9月7日朝刊に「本日堂々大公開!! ベンガルの槍騎兵 オリオン座」とある。
7:13、霧の小次郎の横断幕
沖縄タイムス1954年9月25日朝刊に「本日堂々大公開 3部作一挙上映! 霧の小次郎」とある。
なお、霧の小次郎の横断幕は下記の画像にもある。これらも同時期に撮影された写真かもしれない。
8:31、学生心中の横断幕。
沖縄タイムス1954年9月11日朝刊に「本日堂々封切 学生心中 大洋劇場」とある。
- Amazon:アンヤタサ!―戦後・沖縄の映画1945‐1955
- Amazon:沖縄まぼろし映画館
大那覇市建設について
ビデオ 3:09、3:29、に大那覇市建設の横断幕。1954年9月に那覇市・首里市・小禄村が合併したことを指すと思われる。
3’10″ 横断幕に「大那覇市建設 体育祭」 左上に日付もあるように見えるがよくわからない(残念)
※市民の友の第22号(53.12.5発行)、第41号(54.12.1)、第55号(5455.11.10)、第70号(56.12.17)に市民運動会の記事があり、70号は「第6回市民運動会賑わう」とある。
※第39号(54.10.25)には「市民大運動会11月21日予定」とある。
大那覇市は3市1村合併後の那覇のことをそう呼んでいることが多いです。流れとしては3市(那覇・首里・真和志)1村(小禄)合併の計画なのですが、みなと村の件で真和志村(当時)が反発、53年暮れに真和志は市に昇格します。54年は話し合い不調で、54年9月に真和志以外の2市1村が合併(市民の友には編入とも書かれています)。54年の市民の友(目次しか見てないのですが)に初めて「大那覇市」という言葉が登場、その後「大那覇市」は出てこなくなり57年12月の真和志市合併の際にふたたび登場します。
ビデオと同じく「祝大那覇市建設」の横断幕が写っている写真。1954年とある。旧安木屋のあたりに骨組みだけが見える3階建てぐらいの建物がある。この建物はビデオの5:29ごろにも写っている。
(那覇(平和通り)/平和通り : 那覇市歴史博物館と同一のものと思われる)
撮影日時:1954年 / 所有者:那覇市歴史博物館
那覇(平和通り)/平和通り
配信元:那覇まちのたね通信
事業主体:NPO法人ちゅらしまフォトミュージアム・地域情報エージェント株式会社
余談だが、上記写真の横断幕の「」の字は覇の異体字(地域文字)。この文字については、『漢字の現在:「覇」の地域文字』の解説が詳しい。
上記写真を拡大。覇の左下部分が異体
安木屋について
5:47- 書店の上の方に “○木○○○○”(安木屋百貨店?)と読めそうな小看板がある。
設立は1954年1月。
昭和29年1月 那覇市平和通りに合資会社安木屋百貨店 設立
近所には安村書店もあるが、こちらは 5:19-5:21,5:34-5:37 に見られるように 日除けの幕が店舗前にあり、5:47 の書店とは別だと考えられる。
(安村書店はNaha Airbase, Okinawa Family Album 1954 to 1955の5段目左から2列目の写真の店舗だと私は推測している)
牧志街道(現国際通り)の拡張工事
幅の狭い牧志街道を拡張したのが1954年ごろ。それから神里原に代わって国際通りが発展していきます。
ビデオ3:31〜4:30ごろの間には、拡張工事中と思われる国際通りが映っています。
「那覇市議会史関係略年表(稿)」によると牧志通り開通式はこの年の12月5日、開始日はわかりませんが、53年2月27日に「牧志大通りの工事に関し、土地収用法適用を認可」とありますので工事期間は53.2〜54.12の間に収まる期間だと思われます。
下記の国際通りの写真では、ビデオと同様に、むつみ橋から現ホテルJALシティ那覇(旧山形屋)の間にバスが路駐しています。
撮影日時:不明 / 所有者:那覇市歴史博物館
国際通り 松尾付近
配信元:那覇まちのたね通信
事業主体:NPO法人ちゅらしまフォトミュージアム・地域情報エージェント株式会社
下記写真では大宝館前の道路は整地されておらず、車は通れない状態です。
- 1954/7 Clowns Advertising – July 54 – Flickr
- 1954/08/07 国際通り : 那覇市歴史博物館
パチンコ屋
昔は国際通りや新栄通り、開南などに多数のパチンコ屋がありました。今ではほとんどが郊外に移転しています。
このビデオにもパチンコ屋絡みの映像がいくつか映っています。
- 0:18、丸三パチンコ、大洋パチンコ。丸三パチンコの花輪は1周年と書かれていると思われる(5:25チンドン屋広告から推測)
- 1:27、丸国パチンコ。
- 5:25、チンドン屋さんが持ってる看板丸三パチンコ開店1周年とある
琉球新報縮刷版1953年7月9日に「首都那覇一番乗り パチンコ開店」の広告(満潮パチンコと思われる)。
琉球新報縮刷版1953年8月23日に丸国パチンコ「華々しく本日開店」の広告。
パチンコ店広告から撮影は1954年7月以降と思われる(さらに調査が必要)。
- 丸三パチンコ。同一人物?
- 平和通り : 那覇市歴史博物館(三幸パチンコ、中央パチンコ)
- 満潮パチンコ1周年。琉球新報1954.7.11に祝創立1周年の広告。
- 平和通り : 那覇市歴史博物館
- 那覇(平和通り)/呉屋商店とチンドン屋(パチンコ店) : 那覇市歴史博物館(三幸パチンコ)
- 風景/市場付近 : 那覇市歴史博物館(ナショナルパチンコ 2周年で1953は変。後ろにみつや書店)
ラジオ沖縄社
- 沖縄における戦後黎明期の放送 – Radiofly
- wikipedia:琉球の声放送
上記ページの情報からすると、「ラジオ沖縄社」の名義だったのは、1954年6月以降~1954年9月30日までのようです。
結論
大宝館の映画看板・立て看板から1954年9月5日(土)〜9月10日(金)と推測できます。
他の情報もこれとは矛盾しません。那覇高校・那覇中学校女生徒の夏服姿が映っているので日曜日以外の午後でしょうか。
(那覇高校の制服制定時期と合わないので、上記推測は取り下げます。調査いただいた渚美鈴さんに感謝。cf. 公開資料05 | 量産工房)。
- Amazon:アンヤタサ!―戦後・沖縄の映画1945‐1955
- Amazon:沖縄・国際通り物語―「奇跡」と呼ばれた一マイル
- Amazon:沖縄まぼろし映画館
- Amazon:幻想の街・那覇
ディスカッション
コメント一覧
Dr.too-goo さん、コメントありがとうございます。
マルクニマーケットと新天地市場に学生服を扱う小さな店が多かったことは覚えています。
ビンゴについての情報ありがとうございます。色々調べているのですが、当時のことを書いた情報が少なくて困っていました。「ルーレットのような回転装置を付けたかご」というのが想像できないのですが、複数のカゴがぐるぐる回っているようなイメージでしょうか?
浮島通りから神里原へ抜ける道と、平和通り、壺屋の天ぷら坂から開南入口の新栄通りの交差点にあるマルクニ百貨店(2階にビンゴの看板)はその後マルクニマーケットとして、60年代の那覇の中学生の学生服などを扱う一畳ほどの店舗が集合してました。60年代半ば頃は、中学生でもラッパズボンなどをその中の店舗で仕立ててはいてました。当時の言葉でゴログヮーたーでしたが、体育ズボンもラッパ仕立てだった。地元の神原中生ならみんな通っていたはず。
ビンゴはルーレットのような回転装置を付けたかごの中にソフトテニスボールのようなものを投げ入れてやっていたようなのをスーミした覚えがある。