チャイナ陣地(チャイナボーセイ)のシンポジウムを聞いてきた

歴史

終戦直後の沖縄に中華民国軍が居た、という話が2014年に報道されていた。チャイナ陣地・チャイナボーセイ等と呼ばれていたそれが、米軍物資を国民党に売却するための拠点であったと判明したのは、当時普天間中教諭の森岡さんらによる研究成果だ。

その森岡さんら研究者によるシンポジウムが首里石嶺にある沖縄県総合福祉センターで開催されるとのチラシを偶然発見し、聞きに行ってきました。


チャイナ陣地とは

勝連や首里に中国軍がいたという記述は、戦後を記録した書籍・新聞にも記載されています。例えば、沖縄戦孤児のDNA鑑定 那覇市に協力要請 | 沖縄タイムス+プラスでは「沖縄厚生園は1949年、沖縄民政府が本島5カ所にあった孤児院を統合し、中華民国軍の駐屯地「チャイナ・ホーゼ」跡に開設した」と書かれています。

今回の会場である沖縄県総合福祉センターは厚生園の跡地であり、その前には「チャイナ部隊」さらに遡ると「黒人部隊」や「フィリピン部隊」が駐留していたそうです。

チャイナ部隊は戦後の米軍余剰物資を国民党に売却するために駐留していました。その駐留部隊名が Bosey(Board of Supplies of the Chinese Executive Yuan)であり、そこからチャイナボーセイ、チャイナホーゼ、チャイナホーズなどと呼ばれていたようです。

U.S. surplus war goods sold to China at Okinawa. / Chinese soldier driving truck. / Surplus materials / 写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館
(トラックのドアにBOSEYの文字が見える)


チャイナ部隊の位置

シンポジウムのなかで私が興味深いと思ったのは、森岡さんによる首里チャイナ部隊の領域に関する発表です。当初、首里のチャイナ部隊は後の厚生園の所在地・範囲だと想定されていました(2015年時点)。

今回の発表によると、実際にはそれよりも西や北に広がっていたらしく、1.5〜2倍程度の広さがあったようです。

発表資料から引用



領域の特定には、沖縄公文書館に残っている「土地所有申請書」を利用したそうです。その中で軍に関する記事が記載されているものを丹念に拾い出し、境界を割り出しています。

なるほど、そんな方法があったのかと目から鱗です。研究者なら当たり前の方法かもしれませんが、個人で調べていると思いつきませんでした。この方法、国際通りでも利用できるかな。場所が不明な建物がいくつかあるんだよね。


リンク

歴史

Posted by ず@沖縄