1947,1949年の公営バス路線図(沖縄公文書館)
沖縄公文書館の資料に1949年11月23日現在のバス路線図がありました※1。1947年7月28日の資料には開設当初の予定路線図もあります※2。当時は民営バスはまだなく、公営バスも1947年8月18日にできたばかり。たぶん戦後最初期のバス路線図だと思います。
- ※1 郵便逓送用専属車両配置御願いについて 資料画像 (R00000439B)
- ※2 Establishment of an Okinawa Bus System. 資料画像 (RDAP000005)
交通・運輸/公営バスと従業員たち / 撮影日時:1949年 / 所有者:那覇市歴史博物館
那覇市歴史資料室収集写真/戦後/同写真1枚/(1949頃)
配信元:那覇まちのたね通信
事業主体:NPO法人ちゅらしまフォトミュージアム・地域情報エージェント株式会社
路線一覧
路線図は上のリンクからご参照ください。個々のバス路線経由地と突き合わせたところ、図には省略があるようです。
那覇側のバスターミナルは安里になっているが、これは後の沖縄バス本社、現在の栄町りうぼうの位置のはず。
1949年資料の路線の大半は安里と他の地点を結ぶ路線。安里を始点・終点としない路線は名護から名護以北への路線だけです。安里(あるいは名護)と「どこか」を結ぶ路線が多いためか、路線名は「どこか」線になっているものが多いです。これは今とあまり変わらないですね。
名護東線 | 安里-(那覇)-国場-与那原-高原-胡差-登川-石川-金武-古知屋潟原-許田-名護 |
名護西線 | 安里-牧港-嘉手納-高志保-仲泊-恩納-許田-名護 |
久志線 | 安里-首里-普天間-胡差-登川-石川-宜野座-瀬嵩-嘉陽 |
石川線(循環線) | 石川-栄野比-安慶名-胡差-高原-与那原-安里-牧港-嘉手納-高志保-仲泊-石川 |
与勝線 | 安里-首里-普天間-胡差-安慶名-金武湾-屋慶名 |
金武湾折返線 | 安里-首里-普天間-胡差-安慶名-金武湾 |
胡差線 | 安里-胡屋-胡差-普天間-首里-安里 |
糸満線 | 安里-(牧志,農連前)-旭橋-小禄-糸満 |
糸満玉城線 | 安里-首里-南風原-外間前-稲嶺-冨里-具志頭-米須-糸満-小禄-那覇-安里 |
知念東風平線 | 安里-国場-津嘉山-東風平-具志頭-百名-志喜屋-佐敷-与那原-国場-安里 |
百名線 | 安里-那覇-国場-与那原-新里-親慶原-百名 |
宜野座線 | 安里-国場-与那原-高原-胡差-知花-石川-宜野座 |
本部半島線 (屋部廻り,今帰仁廻り) | 名護-屋部-渡久地-具志堅-仲宗根-伊差川-名護 |
辺土名線 | 名護-伊差川-源河-塩屋-大宜味-辺土名 |
平良線 | 名護-伊差川-大宜味-大保-平良 |
宜名真線 | 名護-伊差川-塩屋-大宜味-辺土名-宜名真 |
1947年の資料では安里発がなく知念発になっています。下表は原文の英語表記を日本語に直したものです。当時の那覇市のほとんどは占領下ですし、米国民政府(USCAR)は親慶原、琉球民政府も佐敷です。
こちらの資料には経由した道路の番号も記載されています。
第一名護線 | 知念-南風原-那覇-嘉手納-名護 |
第二名護線 | 知念-西原-胡差-古知屋-名護 |
辺土名線 | 名護-塩屋-奥間-辺土名 |
本部線 | 名護-渡久地-大井川-我部祖河-名護 |
瀬嵩線 | 知念-西原-知花-久志-二見-瀬嵩 |
与勝線 | 知念-南風原-首里-胡屋-安慶名-具志川-屋慶名 |
島尻線 | 知念-南風原-那覇-糸満-港川-百名-知念 |
現在の路線と比較して
すでに現在のバス路線図の祖型が伺えます。これは沖縄本島の幹線道路がこのころからあまり変わっていないためかもしれません。公営バスは後に沖縄バスに引き継がれましたので、特に沖縄バスの路線と似ています。
1949年当時も安里と胡差を結ぶ路線が7路線もあり、現在の那覇バスターミナル-コザ間と同じ状況です。
米国民政府、琉球民政府の位置が何度も変わっているので、バス路線も影響を受けたものと思われます。
1949年7月25日、沖縄民政府が佐敷村新里(知念地区)から那覇市の上之山国民学校(現上山中学校)に移転、1949年11月21日に沖縄民政府が天妃国民学校(現在の天妃小学校跡)に移転すると、同年11月12月1日に米軍政府が玉城村親慶原から上之山校に移転してきた。
那覇はどこ?
那覇と書かれた地名があるのですが、どこを指しているのか不明です。那覇市役所はこの当時は現在の牧志公設市場にありました。先に述べたように米国民政府は親慶原、琉球民政府はまだ佐敷です。1947年資料では南風原から那覇までは44号線、那覇から嘉手納は1号線と書かれていますし、路線図からすると前島〜若狭付近にも見えます。
1949年資料では安里-那覇-与那原、安里-那覇-国場、安里-牧志-旭橋を通る路線があるので、牧志でも旭橋でもなく、与那原・国場に行ける場所です。
旧那覇市の大半はまだ米軍に接収されたままですので、それ以外の場所だと思われますが。
その他
安里-農連前-旭橋という路線があるのですが、この農連前はどこなのでしょうか。現在再開発中の樋川の農連市場は1953年からですので、ここではなさそう。グダグダさんの記事※1からすると現在の農協会館のあたりになるのかな? 確かにあそこは昔は農連前というバス停だったと思います。
民政府のある・あった場所※2を通る路線が多いのですが、バス自体が公用優先だったようです。捕虜収容所との関係もあるのかな?
各路線の運行距離・乗車人数等は「公営バス民営移管について」※3にあります。
- ※1 グダグダ(β) 農連前我那覇鉄工所(壺川)
- ※2 米国民政府跡(ベイコクミンセイフアト) : 那覇市歴史博物館
- ※3 公営バス民営移管について 資料画像 (R00000490B)(1949年4月)
追記
沖縄公文書館もバスに関する記事を書いています。
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