琉球の囲碁について(1)

2016/05/23歴史, 沖縄, 琉球の囲碁

沖縄は伝統的に将棋よりも囲碁が普及していて、碁会所はあちこちにあるけど将棋道場は見かけない。
与儀公園で対局している人も囲碁は将棋の4-5倍ぐらいいるように思う。

このような差がどうしてついたのか、とりあえず資料の豊富な囲碁史から調べてみた。

親雲上濱比賀・屋良里之子

琉球の囲碁史を調べると1682年(天和2年)に本因坊道策と対局した親雲上濱比賀の名がでてくる。日本語Wikipediaの本因坊道策には「親雲上濱比賀(べいちんはまひか)」と書かれているが、これは「ペーチンはまひが」だと思う。親雲上は士族の称号。

対局は坐隠談叢(巻之1)という書籍に書かれていて、これは国立図書館の国立国会図書館デジタルコレクションで見ることができる。棋譜も載っている。

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坐隠談叢(巻之1) P.60-61 – 国立国会図書館デジタルコレクション

同書には屋良里之子、仲元筑登親雲上の名も見える。やらサトゥヌシ、なかもとチクドゥンペーチンであろうか。いずれも士族だと思われる。

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坐隠談叢(巻之1) P.69-70 – 国立国会図書館デジタルコレクション

琉球新報Webの『最新版 沖縄コンパクト事典』に称号の説明がある。便利。

中国語の情報が役に立つかも

これらの人名で検索をかけても詳しい情報はなかなか見つからない。なぜか中国版Wikipediaに詳しい情報があった。
参考文献も記載されているので、こちらから手繰れば屋良里之子については調査できそう。

屋良里之子(琉球語:屋良 里之子/ヤラ サトゥヌシ Yara Satunusi ?;1679年3月26日-1734年8月10日[1][2] ),姓薛,唐名薛以恭,名乘利忠,童名真山戶[1],號道機[2]。出家後法號因祐[3]。 琉球國第二尚氏王朝圍棋棋士。由於他成名時位階為里之子,采地為屋良村,故以「屋良里之子」之名見稱[4]。而他最後的采地是屋嘉部村,故稱屋嘉部里之子親雲上利忠,又因為他當時已出家為僧,故又稱屋嘉部因祐或屋嘉部因祐利忠[5][6]。

屋良里之子 – 维基百科,自由的百科全书

百度百科にも記事があるが内容が怪しい気がする。屋良里之子头像として何故か本因坊道策?の像が掲載されている。
(その他の内容もWikipediaの転載だし)

屋良里之子(1679年3月26日-1734年8月10日),姓薛,唐名薛以恭,名乘利忠,童名真山户,号道机。出家后法号因祐。 琉球国第二尚氏王朝围棋棋士。由于他成名时位阶为里之子,采地为屋良村,故以“屋良里之子”之名见称。而他最后的采地是屋嘉部村,故称屋嘉部里之子亲云上利忠,又因为他当时已出家为僧,故又称屋嘉部因祐或屋嘉部因祐利忠。

屋良里之子_百度百科

日本のWikipediaは沖縄・琉球関係はアテにならない(どころか意図的に虚偽を紛れ込ませる人がいる)ので、困るんだよなあ。

参考文献・リンク

歴史, 沖縄, 琉球の囲碁

Posted by ず@沖縄