琉球の囲碁について(2)

2016/06/23歴史, 沖縄, 琉球の囲碁

琉球の囲碁について(1)の続き。

前回紹介した親雲上濱比賀・屋良里之子は資料が豊富で碁譜も残っているのだが、その他の棋士については資料が少ない。

下記2冊を起点に調査し、適宜ネットの資料を引用する。

沖縄の囲碁―歴史と名局棋譜集成には詳しい囲碁史があるが、こちらは1976年出版で入手しづらいと思う。
はじめての象棋は琉球の伝統将棋「象棋チュンジー」の入門書だが、巻末の年表には囲碁史も記載されている。入手も容易だ。




松千代謝名・津波古親雲上元重

「沖縄の囲碁」「初めての象棋」によると記録のある対局の最初は松千代まつちよ謝名じゃならしい。

「球陽・付巻」尚豊王(一六二一年 – 一六四〇年)の項には、秀吉に謁見した琉球王府の使者の随員とみられる松千代謝名なる人が、本因坊算砂に先で打つと豪語する京都人を負かしたとある。

沖縄の囲碁―歴史と名局棋譜集成 (1976年 沖縄タイムス社) P.7

琉球の盤上遊戯

日本での対局として文献で最初に確認できるものは一六世紀末のもので、琉球の松千代謝名と、京都の朴碩という人が対局したと伝えられています。しかし残念ですが詳しい資料は残っていません。

※1 琉球国由来記、琉球国旧記、球陽

はじめての象棋 仲村顕 (著), 島袋百恵 (著)  編集工房東洋企画 (2011/8/1)

佐敷王子朝益の随員・津波古親雲上元重のばあいはどんなだったろう。
「井上家記録」によると薩摩の家老の強いてのすすめに本因坊算悦と対局したという。

沖縄の囲碁―歴史と名局棋譜集成 (1976年 沖縄タイムス社) P.9

以上の記事を元に探してみると「立正大学学術機関リポジトリ: 『琉球国旧記』の編纂 -『琉球国由来記』から『琉球国旧記』へ-」が見つかります。その「付表5 『琉球国旧記』巻4の構成」によると囲碁関連記事は、 「琉球国旧記巻4 79 囲碁」、「琉球国由来記巻4遊戯門 80 囲碁」、「『球陽』附巻1-34 鄭,1-35 無」に存在するようです。以下、順に探してみます。
(井上家記録はわかりませんでした)

琉球国由来記

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35 琉球国由来記 年中祭祀 全《巻3(承前)・4》・《尚侯爵家所蔵本 稲之二御祭公事》・《尚侯爵家所蔵本 御願御双紙》 | 鎌倉芳太郎資料 ノート編(沖縄県立芸術大学)

松千代謝名、朴碩ぼくせき、蔣氏津波古親雲上ぺーちん元重の名が見える。
「古老傳えて云う」とあり、資料編纂時点*1での言い伝えによるものであろうか。
沖縄の囲碁にあるように「秀吉に謁見」したのであれば、1589年のことでしょうか*2

津波古親雲上元重が対局した崇禎七年甲戌八月は1634年。徳川家光の頃ですね。
(甲戌は崇禎七年の干支。祖母が干支で歳を計算していたことを思い出します)
このころの暦の8月は今の何月になるのでしょう? (授時暦らしいけど、検索してもわからなかった)。

尚氏佐敷王子朝益の名も見えます。
1634年は江戸上り慶賀使の1回目。 佐敷王子朝益(尚文)が慶賀使正使ですので、津波古親雲上は同行の士族だったのでしょうか。
金武朝貞 (きん・ちょうてい) – 琉球新報によると「尚豊王冊封の謝礼使・佐敷王子朝益と上国し、将軍家光とも謁見する」とあります)。

*1 康熙52年(1713年、和暦では正徳3年)11月に国王へ上覧。

*2 秀吉もびっくり、ウフチブル我那覇: 目からウロコの琉球・沖縄史より。

琉球国旧記

七九 圍碁
遺老傳。中古之世。有松千代謝名者。尤善圍碁。時京都人。有朴碩者。誇曰。我碁甚高。對本因坊譲一。何有敢敵。遂使謝名對下。而他不敢勝云爾。
崇禎七年甲戌。蒋氏津波古親雲上元重。随尚氏佐敷王子朝益。赴京都。時薩州家老。有伊勢兵部貞昌者。強勸元重。與本因坊相下碁。讓二。而細傳圍碁之秘書。而歸來云爾。

『琉球国旧記』テキスト・データベース(明治大学 日本古代学研究所 琉球関連データベース)

簡単な記事。譲一、讓二は手合割だと思う。

球陽附巻

沖縄国際大学が球陽の画像を公開している(沖縄の歴史情報 第7巻)。日本、薩摩関連記事は球陽附巻にあり、ここから囲碁記事部分を引用する。

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沖縄の歴史情報 第7巻(889)

球陽目次附巻1に読み下し文があります)

中国のWikisourceに該当部分の全文がある。この手の資料公開は中国が進んでいるように思う。

十四年,蔣世德畱在薩州,在傳輸書之法。尚盛【金武王子朝貞】到薩州赴京。時伊勢貞昌曰:「國素知輸書,以為徃來。未詣輸書之法。今蔣世德【津波古親雲上元重】生質聰明,侵有文才,須勸他畱在於此,學其精法。」於是乎世德滯留於薩州,而細學其法焉。至翌年下,悉盡書法而回來矣。

蔣世德與因坊相對圍碁。蔣世德【津波古親雲上元重】在京時,薩州伊勢氏強勸九重與本因坊相對下碁讓二。遂從本因坊學碁,細傳圍碁秘書而歸來。

附:《遺老傳》云:中古之世,有松千代、謝名者,尤善圍碁,馳名四境,無有對下者也。此時京都人有扑碩者,遂誇之曰:「我碁甚高,對本因坊讓一,何有敢敵者耶?」遂使謝名相對而下。然他不敢勝云爾。

球陽記事/附卷之一 – 维基文库,自由的图书馆

蔣世德(津波古親雲上元重)が京都にて本因坊と対局。松千代謝名が朴碩と対局したという簡単な記事。
蔣世德は唐名からなーですね。

冒頭の十四年は尚豐王14年。

感想

結局、松千代謝名・津波古親雲上元重の両対局についての資料はこれだけのようです。

“松千代謝名"で検索してみても コミック奥義秘伝囲碁3000年 ぐらいしか出てこない。
(こちらはNHK「囲碁講座」の人気連載シリーズのコミック化。球陽を元にして書いたようだ)

唐名を使って中国側の資料を検索してみたけど、そちらでも見つからないし。残念ながらこれ以上のことは現時点ではわかりませんでした。

参考文献・リンク

歴史, 沖縄, 琉球の囲碁

Posted by ず@沖縄