大相撲沖縄巡業(1952年)

昨年末、大相撲沖縄場所冬巡業が行われました。実は復帰前の沖縄でも何度か大相撲の巡業がありました。

当時の写真をWbm Bradford氏に提供いただきましたので、日時・場所等を補足し、紹介します。提供いただいた写真のブログへの掲載・改変・利用にあたっては著作権者であるWbm Bradford氏より許可をいただいています。転載等はご遠慮ください。

撮影時期について

復帰までに少なくとも3回の巡業があったようです(1952年11月,1959年4月,1967年12月)。今回紹介する写真は1952年11月の東富士、朝潮一行の沖縄初巡業と推測されます。

雨天等の影響で日程も何度も変更されています。朝潮関は徳之島出身ですので、広告では琉球出身の力士として扱われています。新聞記事にも朝潮関と母親との対面記事が多く掲載されていました。


琉球新報1959年11月16日(日)1面

なお1952年は4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄が日本から切り離された年でもあります。

会場について

上記新聞広告によると、会場は那覇警察学校前広場となっています。1952年版沖縄主要地主要商工年鑑や最新那覇市地図※1から推測すると、那覇警察学校は現在のパレット久茂地の斜め向かい、現県庁北口交差点〜現松尾バス停付近にあったと思われます。

※1 グダグダ(β) 松尾区(昭和26)

1952年当時の国際通りは拡幅・直線化されていないため、当時の地図を見ても場所がわかりにくいです。沖縄主要地主要商工年鑑(下図)では県庁北口交差点から那覇市役所前の道路が書かれておらず、三叉路であったようにも見えます※2。下図の警察通りが現在の御成橋〜県庁前の通り、中央上からの道が現在の国際通りに当たります(追記もご参照ください)。


1952年再販 沖縄主要地主要商工年鑑 実業と文化建設社発行 第一図より
※2 Phil Roeder氏のNaha Modern Buildings – July 54に沖縄工業商事、松屋本店が写っている(現パレット久茂地)。その左が泉崎に行く道路に当たるが未舗装。上地図で道路が引かれていないのも頷ける。

県庁周辺/琉球政府ビルより泊方面 : 那覇市歴史博物館」に当時の松尾付近の写真があります。中央付近を拡大すると相撲写真の背景に写っているのと同一の建物(沖縄電気会社)が見えます。また、「久茂地小学校開校当時の風景 : 那覇市歴史博物館」にも建物と煙突が写っています。

これから考えると、大相撲会場は現在の久茂地三丁目近辺だったのではないでしょうか。1951年9月に米軍から久茂地町・美栄橋町が解放され、1952年には区画整理が行われていたはずですので、空き地は十分にあったでしょうし。


撮影日時:1952年 / 所有者:那覇市歴史博物館
那覇市歴史資料室収集写真/戦後/同写真2枚あり/「写真集那覇百年のあゆみ」P162の上・右部参照/パネルあり(AAN−2 1030×730)/(1952)
配信元:那覇まちのたね通信
事業主体:NPO法人ちゅらしまフォトミュージアム・地域情報エージェント株式会社

だいたいこの辺であろうという地図です。自信はありません。警察学校の正確な位置がわかれば、もう少し絞り込めると思います。


OpenStreetMap®を元に作成。© OpenStreetMap contributors

会場の写真

移動中の行司と力士たち。右端の力士は三代目朝潮太郎と思われます。力士に詳しい方が見れば他の人もわかるのかな。背景にはレストラン大宝売店の横断幕も見えます。

沖縄 1952年11月18日|Kazのブログ」の写真と化粧まわしが同じです。


こちらの写真は背景(左)に戦争で破壊された沖縄電気会社の建物が見えます。久茂地小の写真にあった煙突が見あたらないのが不思議。撤去されたのでしょうか。


こちらは右奥に琉球政府が写っています。露天の会場(土俵)ですので、悪天候には弱く、日程が何度も変更されたのは無理もありません。


背景は天久〜現おもろまちの高台。背景右に木造二階建ての商店?が見えます。この辺りには昔はこのような建物が多かった。


今でも久茂地〜美栄橋には木造二階建ての商店はわずかに残っています(下は久茂地にある建物。上写真の建物とは別だと思います)。木造二階建ては1950年代に多く建てられたもので、古くからの住宅街・商業地です※3

※3 那覇市における木造二階建住宅の研究 : 戦後の市街地形成における位置付け

戦後の沖縄を初めて訪れた力士たちの目には、沖縄の風景はどう映ったでしょうか。

追記

facebookにて「グダグダ(β) 改修以前の国際通りと紅房」にある紅房社史の記事を教えていただきました。以下、グダグダ(β) さんから孫引きします。

岡本[亜紀] 話は戻るんですけど、国際通り時代、製作工場と店舗がありましたよね、たしか。
山城[正成] 国際通りにあったときには、工場の敷地は非常に広かったですよ。建物がトタン屋根だけれども、4棟くらいありましてね。その周辺に、従業員の社宅があったんですよ。今の「わしたショップ」から国際通りを横切って「ざまみ紙店」のうらあたりまで紅房の敷地だったんです。
親泊[一郎] それは戦前も敷地だったんですか?
山城 いや、戦後に。その後国際通りが拡張するというので、今まで紅房の前にあった道が紅房の敷地の真ん中になってきた。真っ直ぐにしたために。だから「おまえら移れ」と、その時の市長が当間重民さん。そういうことで若狭町に移された。

紅房社史 p58(抜粋と編集)

上記の記事すると警察学校は現在のニッセイビル(みずほ銀行)のところから国際通りを超えて旧りうぼうの辺りまででしょうか。そうすると、沖縄無盡が現在の沖縄銀行の位置になります(関係あるのかどうかのか?)。また、角が三叉路になっているのは道路自体が1ブロック北西側にずれていたのが理由になります。

県庁周辺/琉球政府ビルより泊方面 : 那覇市歴史博物館」は煙突が残っているので大相撲興行よりは前だと思われ、であれば映っているのは那覇警察署・紅房と旧国際通りだと考えられるのですが、道路が現在よりも1ブロックずれているように見えないので悩んでいます。うーん。

参考リンク